そんな、あきらめにも似た感情

何もかもが不安で、不安で、しょうがない時がある、と彼女は静かに言った。それはたぶん、生きている上でけっして避けることのできない種類の不安で、例外なく誰もが襲われるものだと思うの。それはもう、どうしようもないくらいに。

そんな時、彼女はひたすら動くのだという。今のその不安定な状況を少しなりとも良いものへしようととにかく動こうとする。しかしそうやって何とかなればいいのだけれど、自分自身が動いたところでどうにもならない時、自分自身のアイデンティティを削らなければ進めぬような道しか進めぬ時(彼女はそれを酷く嫌う)、彼女はただただ、そのどうしようもない現実の中、枕に顔を埋め、誰にも聞かれることのない苦悩と苦悶の声を上げる。

何もかもすべてを解決する究極の打開策はないものか……。まるで砂浜の上をを綺麗に、跡形もなく洗い流す波のような。

そんな考えが彼女の中に一瞬浮かんでは、一瞬で消える。そうやって今の不安が解決したところで、また性懲りもなく、次の不安が波に乗ってやって来る。そのことを彼女は嫌と言うほど知っている。

それから彼女はまた動く。気づくとひたすらに、今の自分を励ますような、不安を和らげてくれそうな言葉を無意識に探している。

人間とはうまく出来ているもので、そんな誰かの文脈から切り抜かれたもっともらしい言葉に、自分の不安を重ね、相対的に見せ、それと比べたら自分の不安なんてものは不安ですらないんだと錯覚することで、自身の自尊心を保てるように出来ている。それは実に効率的で確かな現実逃避の形。

ただ彼女にとって、そんな五分もすれば忘れてしまうような言葉の切れ端に何の意味も無く、そして相も変わらず、彼女の現実は依然として彼女自身の中で絶対的な重量をもってのしかかってくる。そうして、にぶい重さを感じながら、彼女は動くのをやめる。

まあいいや。

そんな言葉が頭に浮かぶ。同時に重さがすこし和らいだ。彼女は不思議に感じる。まあいいや? それはもうどうしようもなく、今の現状をあがき続けた自分自身を見限る言葉だ。けれどどうしてだろう? 今、そう思った私はとても落ち着いている。

まあいいや。それでいいのかもしれない。いや、それでいいんだろう。この感情は今の私に、いやきっと、誰にとっても欠かせないものなんだって。そうじゃなきゃみんな、あの見えない重力に絶えられず、押しつぶされてしまうから。そんな風に、その時思ったの。

それから彼女は少し黙る。地下鉄のドアが閉まり、列車が走り出す前に訪れるようなシンとした静けさが通過する。……でもね

私はやっぱり不安が私を襲うたびに、決まって動くことにしているの。そう言って彼女は僕を見る。だってそんな、あきらめにも似た感情が、今を生きて行く上で確かに必要なのだという事が、私にはどうしても不満で、あがいていたくて、負けてたまるかって、そう思うから。

私の唯一、誇れる事

お断りします。そう彼女はきっぱりと言った。話を持ち込んだ本人の目の前で。その有無を言わせぬ彼女の拒絶の言葉に彼は憤りを隠すことが出来なかった。酒が入っていたこともあるのだろう、彼は彼女を酷く非難した。

彼は自分の住む町を活性化させたいと思っていた。そのために、町にあるいくつかの店と共同して、いわゆる町おこしのようなイベントを計画していた。だからその町に店を構える彼女のところにも必然と、その話が舞い込んできた。

この町と、この町に住む人達のために。こんな風に言うと聞こえはいいよね。と彼女は言う。そうですね、と僕は頷いた。彼女はそういった地域的な活動に、どちらかと言えば積極的に参加していこうとする人だった。話を聞く限り、彼女がその誘いを断る理由は特に思い当たらなかった。なんで断ったんですか? と僕は聞く。 

そう思うよね、と彼女は苦笑いを浮かべながら言う。確かに私も始めて聞いたときはとてもいい話のように思えた。けれどね、そのイベントのもっとこみいった部分を聞いていくうちに、どんどんそのイベントに魅力を感じなくなっていったの。

それは、彼が話すいかにもなコンセプトとは裏腹に、そのディティールにとても利己的なものを感じたから。露骨にではないけれど、内側からにじみ出てくるその内実に、彼の中の欺瞞を見て取ったから。その催しを”本当は”誰のためにやるのですか? そう聞いてやりたくなった。

この話に参加したらきっと、私はこの町どころか、ここに来てくれるお客さんさえ裏切ってしまうような気がしてね。そう彼女は真剣な表情になって言う。

ただね、あのイベントが実際にうまくいっているらしくってね、その話しを耳にするたびに、私はあの判断に疑問を感じてしまっている、と彼女は言う。そのたびに私は他人に私の判断の正当性を確認せずにはいられないの。「それでも私は間違ってなかったでしょ?」「私は正しい判断をくだせたわよね?」そんな感じ。情けないことにね。

彼女の言葉を自分の中に沈めるように、少し間を置いてから、きっと、多くの人がそうだと思いますよ。と僕は言う。結局のところ、人がある判断を下すとき、自分のその選択を一個人のみで肯定できる人などほとんどいないのだ。

もっと強くありたいと思うよ。と彼女は言う。僕は大きく頷いてから、でも、後悔はしてませんよね? と聞く。彼女はきょとんとした目で僕を見て、もちろん、当たり前じゃない、そう言ってふふんと笑う。あの時、あの場面で、キチンと判断を下せたこと。それだけが私の唯一、誇れる事だもの。

ある種の、特殊な選択に直面した時

「人を助けるということは、自分の命を投げ出すことだ」とその人は言った。周りにいる日に焼けた、恰幅のよい若い人達は皆黙って、老齢なその人の言葉を聞いた。

「もし自分の家族や友人、そういった人を助けることになった時、もうどうしようもなくなって、このままでは自分も溺れてしまいそうになったら、ためらわず、どれだけその人が自分にとって大切な人だったとしても、見捨てなさい」

自分達の倍以上生きているその人が発する、重厚で奥行きのある言葉の中にためらいの色は何処にも見られなかった。それはもう決定事項であり、この場所で働く限り、頭の片隅に置いておかなければいけない一つの戒めなんだと彼は思った。

でも、本当にそういう状態になった時、そうやって自分の中の感情を切り捨てるように、自分の大切な人のことも切り捨てることがはたしてできるのだろうか、と僕は彼に訊く。彼はどこかきょとんとした目で僕を見て、そりゃもう、そんなことになったら冷静に考えてもいられないよね、と言った。でも本当にそうなったと仮定したなら、あの人が言ったように、僕は自分の命を最優先にするだろうね。どうやっても助けることができない、このままじゃ自分も溺れてしまうって思ったなら。それがきっと、その状況下での最善解だろうと僕は思うよ。

それからほんの微かな沈黙が流れて、彼は首を振る。でもわからないな。それが本当に正常な判断なのか。そう簡単に言いきれてしまう自分は実は異常なのかもしれない。最善解ではあるけれど、そうすることが本当に正しい事なのかどうか、僕にはわからない。ただ、本当にそうしなければいけない状況になった時、僕はその助けを求める手を振りほどくしかなかった自分自身を、どうしようもなく責めるだろうね。それだけは確かだと思う。

まあだから、そうならないために日々訓練しているわけだけれども。そう彼は言って笑う。それはどこかぎこちない笑顔だった。僕はそんな彼をすこし困ったような顔で見る。どちらが正解というわけでもない。でもどちらかを選ばなければいけない。そういった人生にとってある種の、特殊な選択に直面した時、人は何を考えるのだろう。何を思うのだろう。

考えなければいけない。と僕は思う。そういった決断を自分自身で下さなければいけない場面は、いつもなんの前ぶれもなく、一定の残酷さをもって僕たちの前に立ちはだかるから。

考えるまでもない、そんな事に意味は無い。そう人は言うかもしれない。たしかに、答えなんてでないだろうし、取るべき行動は決まりきっているのかもしれない。だからといって、目を背けてはいけない。おざなりにしてはいけない。真っ正面から向き合う事、自分自身にとっての正しさを、考え続ける事に意味はある。

他人にはない輝きに

ぶらりと散歩をしていたら、ばったり高田君に出くわした。久しぶりに見た高田君は少し大人びた雰囲気になっていた。喫茶店にでも行きません? と高田くんは言った。けれど私はあまり乗り気ではなかった。どちらかというと、私は高田君が苦手な種類の人間だった。私が迷っていると彼の携帯が鳴った。ちょっとすみません、と言って彼は携帯を耳に当て、ここじゃない、どこか遠くの国の言葉で話し出した。

初めて会った時から、彼は人並み外れた語学の才能を持っていて、私の知らない国の言葉で、私の知らない国の人と、私の知らない話をしているのをよく見ていた。時に楽しそうに、時に真剣な表情で話す彼が、私には眩しく輝いて見えていた。

誰と話してたんですか、と彼が携帯を切った後、何となく聞いてみた。カンボジアの友達です、と彼は笑って言う。カンボジア、と私は思い、その国の正確な位置すら知らない自分がひどく情けなく思えた。そっか、やっぱりすごいね、高田君は。自然と、呟くように私は言っていた。

彼のようななにかに優れた人間を前にするといつも、私は自分とその人との歴然とした隔たりに絶望的なまでの劣等感を抱いてしまう。そうやって、誰かと自分とを比べることに何ら意味なんてない事はわかっている。ただ、実際に彼らを前にすると、私は一生、彼らみたいに輝くことなど出来はしないのだろうと、そんな卑屈な考えで頭がいっぱいになった。だから私にとって高田君は、憧れると同時に、苦手な存在でもあった。

別に、そんな事ないですよ。と彼は首を振る。それからふと思い出したように、むしろ佐藤さんの方が僕はすごいと思いますよ、そうさらっと言った。その言葉に私は不意を突かれて、どこか気の抜けた顔になる。私? 何が? ほら、佐藤さん楽器とか弾けたじゃないですか。僕はそういうのてんでだめで。

楽器? そう言われて私の頭に浮かんだのは押し入れの中でホコリを被った哀れなアコースティックギターだった。ああ、あれは……まあ遊び程度に弾いてただけだし、Fのコードも未だに押さえられないし、誰にだって出来るし。それになんていうか……高田くんとかが話せる外国語なんかと違って、それほど役に立つってものでもないしね。

いや、違います。と彼は急に真面目な顔になって言う。確かに僕はいろんな国の言葉でいろんな国の人と話せたりします。でも、音楽っていうものは、そういう言葉を超えた一つの意思伝達の手法じゃないかって僕は思うんです。音楽でならどんな人とでも通じ合える。音楽の前に言語の違いなんて些細な隔たりでしかないんです。きっと佐藤さんは誰とでも、僕とは違う方法で、僕の及ばないコミュニケーションをとれるんだろうなと、そう思います。だから僕には佐藤さんがうらやましいです。とても。

そんな彼の突拍子もない言葉に、私はまたしても呆けた顔になってしまう。こんな私に、うらやましいなんて言ったのはたぶん彼が初めてで、その何とも一般論的な、ひどくありふれた励まし、あるいは皮肉にもとれそうな彼の言葉に、けれど私は、顔を真っ赤にさせてしまうほど恥ずかしさを感じたのだ。

もしかしたら本当に、私は私自身ですら気づくことのないすばらしい何かを持っているのかも知れない、なんて。そう思ってしまう私は我ながら単純な人間だなとあきれ、それでもどこかそう信じさせるものが彼の言葉の中にはあった。他人の中にある、自分にはない輝きには敏感なくせして、こうやって誰かに言われるまで、自分の中にあるはずの、他人にはない輝きには気づくことすら、気づこうとすらしなかったのだ、私は。

また、そんな冗談を、と私は真っ赤な顔を彼に見られまいと、俯いたまま彼の肩を軽く小突き、それから適当な理由を拵えて、彼と別れた。また今度、ゆっくり話しましょう、と高田君は言って笑った。その顔はやっぱり、輝いて見えた。歩きながら、家に帰ったらFのコードでも練習しようかしら、なんて考えつつ、すこしして、顔の赤みは引いたけれど、頬のほころびが後を引いた。